他人の基準で人生を決めるというリスク

誰かのものさし
私たちは様々な評価に囲まれている。それは自分自身が決めたものではなく、「どこかの誰か」が決めたものだ。
何かを評価するとき、「自分の考えの下で評価したつもりでも、そのものさしは誰かのものであった」ということが多々ある。
それどころか、気付かないうちに誰かのものさしで物事を計っている。
そのものさしはテレビで繰り返される言葉や、親がよく言う言葉、友人たちが使う言葉、どこかで聞いたような言葉など、あらゆるものの影響を受けているのだ。
人の考えは無数に連なる言葉によって構成されている。心の中にある言葉の中には、本当に自分の性格に合ったものだけではなく、明らかにあなたの好みではない言葉もあるのではないだろうか?
本当に自分が求めているものではないもの、そうであるはずなのに、思い浮かぶ言葉や反射的に出てくる言葉は、どこか自分の価値観と矛盾したものが混ざっていることがある。
それは、自分のものではない誰かの言葉を、無意識の内に自分の言葉だと思い込んでしまうことがあるからだ。
「仕事というものは大変なものなのだ」
「苦労は買ってでもしろ」
「社会人とはこうあるべきだ」
「これが常識だ」
「現実的に考えろ」
「それは難しい」
「あなたには出来ない」
何の根拠もない言葉が人の思考を支配する。
先に挙げた言葉は誰もが聞いたことがあるのではないだろうか?そして頭の中に思い浮かんだことが何度もあるだろう。
他人の基準は正しさではない
一種の洗脳の様なこれらの言葉は、自ら生み出した思考ではなく誰かに教育されたものだ。
このような考えを元に何かを判断してしまえば、のちに後悔することになる。
仕事が大変だとは限らない。下手に苦労をしたことによって性格の歪んだ人になってしまうかもしれない。社会との関わり方は多様なもので、会社の常識は隣の会社の非常識かもしれない。
現実は人の数だけあり、その人が認識できる現実は唯一絶対の真実ではない。物事の難易度は人や手法によって変わり、その人には出来なくてもあなたには出来るかもしれない。
このように、誰かのものさしで正しいとされることでも、自分にとっても正しいとは限らない。
誰かのものさしで素晴らしいとされることでも、あなたが満足するとは限らないのだ。
他人の価値判断に従ったところで、その言葉を発した他人が満足するだけで何も生み出さない。従うことを自分自身が本当に求めているのであれば止めないが、求めていないのであれば続けてもメリットはないだろう。