不登校の子を持つ親に出来る唯一のこと

不登校の子を持つ親に出来る唯一のこと。
それは、幸せでいることだ。
子供を信じたい不安な親
子供が不登校になると、親は不安になる。
「自分の教育が間違っていたのか?」
「何がいけなかったのか?」
「あのときこうしていたらよかったのか?」
そうして、勝ち目のない「理想のケース」に戦いを挑んで、苦しんでしまう。
夫婦間でのケンカも増えるかもしれない。
子供に対しては、まるで腫れ物に触るように過剰に扱ってくれるようになる。
そうやって、子供は家庭内での注目を独り占め出来るようになる。
子供はそれによって、良い悪いは関係なく、誰も見向きもされないような状況からは逃れられる。特別席を与えられた子供は、そこから動こうとはしなくなるだろう。
自分が幸せでないのに、他人を幸せにすることは出来ない
自分を信じられない人が他人を信じることが出来ないように、幸せでない人に他人を幸せにすることは出来ない。
どのような変化も先ずは自分から起こすべきだ。他人の態度を変えることは出来ない。
人目とか、世間体を気にしている親と共に暮らしていて、その子供が世間体を気にして自尊心を欠いていくことは想像に難くない。
そして自尊心を欠いた状態で、再び社会との関わりに踏み出すことは難しいだろう。
「人と関わりたくない」という感情を作り出す目的は「人と関わって傷つかない」ことだ。関わりたくないのではなく、傷つきたくない。人と関われば、嬉しいこともあるし傷つくこともある。不登校になる子供はそこに踏み出す勇気を失っているだけなのだ。
その勇気を取り戻せば、子供は自然と人との関わりの中へ踏み出していく。
子供への批判か親への批判か
もし、子供が不登校なのに笑っていたら、誰かに文句を言われるかもしれない。
「どうして子供が不登校なのに笑っていられるのかしら」
でも、子供が不登校なことに悩んでいる顔をしたら、子供が代わりに文句を言われてくれる。「親がこんなに悩んでいるのに、どうしたのかしら」
いつでも笑っていて、子供に向かう批判を、自分が否定してあげることも大切だ。
悩んでいて得をするのは自分だけなのだから。もちろんその「得」も一時出来なモノで長期的には問題になってしまう。だからこそ、悩んでいても意味がないことは明白だ。
親が子供を尊敬する
気付けば、自分が一番子供の可能性を否定していることがある。
この辺りの話をすると「そんな簡単に学校に行ったら苦労しない」と言ってしまう人がいる。だがそのセリフは危険だ。少なくとも自分の子供の前で言うべきではない。この言葉は「自分の子供は簡単に学校に行く能力もない」と認めているのと同義だからだ。
つまり、他人である私が、あなたの子供が外に出て行く能力があると信じているのに、親である自分が一番子供の能力を認めていないことになる。
少なくともあなたの子供は、他人を貶めて自分の立場を守るような、器の小さい子供には育たなかった。それだけで十分自信を持っていいと思う。
自分が何らかのストレスや不満を抱えていて、それを他人に押し付けて生きている人も多い。会社にもそういう人がいるだろう。子供がその選択を取らないことは決して間違っていない。
親の課題と子供の課題
難しいという人もいる。だが、難しいからやらないのか、難しくてもやるのか、それはあなたの決断だ。
私は、不登校になってしまった人が復帰できることを願っている。
私の考える復帰とは、必ずしも学校に登校することではない。社会との関わりから可能性を閉ざしてしまわないように、社会との関わりを取り戻す勇気を持つことだ。
別に学校へ行かなくても良いし、行くにしても同じ学校である必要はない。社会との関わり方なんていくらでもある。少なくとも、個人が想像出来る狭い範囲よりずっと多く。
子供が自信を取り戻したら、その子供が勇気を持って自分で選んでいくだろう。その道の先は、この記事を書いている私にも、親であるあなたにも決めることは出来ない。
子供も、私と同じ対等な一人の人間なのだ。自らの道は自ら選択していく。私たちに出来ることは、自らの人生を生きていく子供を勇気づけることくらいだろう。