議論が成り立たない最大の原因とは

ネットを見ていると議論がまるで成り立っていない光景をよく見る。何かが炎上しヒステリックな空気が蔓延したときにはもはや手に負えず、「議論」なんて崇高な言葉は影を潜めてしまう。
残念ながら、議論の本当の意味を多くの人がわかっていないというのが実情だ。だから日本人は議論が出来ないと言われてしまうのかもしれない。
議論が成り立たない原因として最も大きいもの、それは「絶対的な正解」があるときだ。
正解ありきの善行
炎上でよく見るパターンを例にして考えよう。
”ある有名人が炎上した。その人の主張は辛辣で、全面的には肯定できないものの、論理的に受け取ると一考の価値があるものだった。
そんなとき誰かが、「この意見のこの部分は有効かもしれないから考える必要があるんじゃないか」と前向きな意見を言った。しかしその人は勝手に「擁護する人」というレッテルを張られ、他の人に「正される」ことになった。”
こういったケースのコメント欄を観察すると、みんな炎上した人や、それを擁護する人を複数で「正そうと」しているのがわかる。初めから議論する気などないのだ。だって私たちは全面的に正しいのだからという姿勢で、異なる意見を持つ個人に対して複数で説得しにかかる。
この正しいという「思い込み」が議論を阻害する。
議論が成り立つためには
今あげた炎上の例で、議論になりえる部分があった。一考の価値がある部分に対して「この部分は有効かもしれない」と気付いたところだ。
しかし、議論する気のない人がそれを無視して自分を押し付けてしまったため、議論には発展しなかった。議論をするためには「論理的に話し合える相手」が必要だ。相手がいない場所で議論は起こりえない。
絶対的に正しいものがあるとき、議論が起こることはない。
何故なら、「100%正しくてこれ以上どうしようもないものがあるのだから、話しても仕方ない」ことになってしまうのだ。
何かが絶対に正しいと思っていては話し合うことは到底出来ない。出来るのはヒステリックに一方的に、自分の望む答えになるまで押し付けることくらいだろう。
だが、この世に100%と言い切れるものは存在しないし、それを証明する手段もない。ならば、1%でも他の可能性があるという事を受け入れる必要がある。議論に必要なのはこの1%を考える想像力があるか否かだ。
議論とは「より確からしいもの」を求めること
議論はより正しいと思われるものを探求する行為だ。
勘違いしてはいけない。議論とは、自分の意見が正しくて相手が間違っていることを証明するものでは断じてない。
ディベートの考えがまさにそうだ。これも勘違いされることが多いが、ディベートとは相手を言い負かした気になる技術ではないのだ。
自分と異なる視点や思考を持つ他者と共に、より確からしい答えを探すことを本当の意味で議論という。そのためには可能性を捨ててはいけない。自分が正しいわけでも、相手が間違っている訳でもない。どちらも間違っているかもしれない。だからこそ議論をするのだ。
残念ながら現代にはしょうもない「絶対的な正しさ」が蔓延している。だからこそ、本当に議論をすることを止めないでほしい。あなたや私のように本当の意味で議論をしたい人もいるのだから。