「大人たち」が大人なら、優先席は必要ない

優先席では席を譲るべきだとか、そんな言い争いを見ることは珍しくない。
「妊婦さんには席を譲った方が良い」
「年寄りには席を譲った方が良い」
「けが人には席を譲った方が良い」
「若者は立っているべきだ」
「元気な人は立っているべきだ」
「子供は立っているべきだ」
正直、この辺りの話はどうでもいい。そもそも、譲り合うことが出来るくらいに「大人たち」が大人なら、優先席は必要ない。
電車の無意味なマナー
優先席は、「遠慮の場」として存在していると、最近感じるようになった。
困っている人が安心して座れる場所ではなく、人を困らせる場所として、電車の中の四隅に存在しているのだ。
あまり気にせずに座っている人も増えてきたようには思うが、それでも周りの「正義感の強い」迷惑な人に文句を言われたら、気分を害さずにはいられない。
気にする人は「席が空いているのに」そこには座れないし、なにより譲ってもらう側が気を使って優先席の近くに行けないという声もある。
「譲るべきだ!」という対象を遠ざけてしまうと言う本末転倒な状況をこの古臭いマナーは作り出している。
他にも、ただ昔からの慣習で続いているだけの根拠のないマナーは多い。
未だにケータイ電話の電源を切るようにと言った意味のわからない張り紙まで張っている始末だし、さすがに変わるべきだと思う。
「ペースメーカーに影響を与えるから~」と根拠無しの理的な知識を披露してくれる人もいるが、携帯電派の電波が医療機器に影響を与えるなら、そもそもその人は街中を歩けないし、電車に乗れるわけがないだろう。
優先席はいらない
マナーを強制するあの席は、「みんなが座りにくい場」として存在している。
若い人が座っていれば、たったそれだけで文句を言われそうだし、年寄りが近くにいれば座らせなければいけないような気がしてくる。
そうなると、若い人はその席が空いていても座ることが出来ないし、歳よりは気を使って優先席に近づきづらくなる。
誰も得しないわけだ。しいて言えば、「マナーを強制する」迷惑な人が得するくらいだろうか。そんなものを、本当に皆望んでいるのだろうか?
マナーだ何だと言うが、若い人に譲らせる前に「自分が席を譲ればいい」し、年寄りは「運動のために立ってた方が健康に生きられる」かもしれない。
そこを強制するのがおかしいのだ。
本当は、優先席なんてなくても、困っている人がいたら席を譲ることを大人たちが出来れば問題ない。
この国の大人たちは、いつまで人に強制されなければ動くことが出来ないのか。
少し厳しい言い方かもしれないが、人に強制されないとできない未成年のままだから、こんなものが必要なのだろう。
アドラーによると、人のライフスタイルは大体10才で決まるという。そこから成長することがない人が多すぎる。立場やお金と言った外面的なものばかりがまとわりついていながらも、人間性は全く変わっていない。
みんなが本当に大人になれば、「我こそは」と競争する関係から、「誰かの為に」協力出来る関係になれば、優先席なんてものは必要なくなるだろう。
優先席なんか無くして、どんなところでも譲り合えばいい。