言葉には「致死量」がある

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歌人である田中章義さんが、ある番組で「言葉には致死量がある」と語っていた。

暴力や体罰というものに対しては、世間的に強い反対がある。学校で体罰が怒ればみんながそれに異を唱える。

私が見過ごされていると思うのは、言葉の暴力はどこか容認されている雰囲気だ。

容認される言葉の暴力

どのような形でも暴力は暴力だ。それが物理的なものであっても、精神的なものであっても何ら変わりはない。

だから、口でどれだけ酷いことを言おうとも、手さえ出さなければいいかのような論調は少しおかしい。

学校でも他人を馬鹿にし人格を著しく傷つけても許されるし、親が子供に対してどれだけ感情的に怒鳴っても誰も文句を言わない。上司が部下に対して人格批判をしても、それが暴力だとは批難されない。

そのような言葉の暴力に対する世間の反応の鈍さには違和感があった。

彼らは、言葉で人が死ぬということをわかってない。

無知は罪とも言う。死は、わからなかったでは済まされるものではないし、人が死んでからでは遅い。人の死に対して責任を取れる人間なんて誰一人としていない。

人が死ぬ前の状態になんて、だれがどう頑張ったって戻れないのだ。

言葉で奪われる人の命

朝鮮戦争では、アメリカ史上もっとも多くの戦争捕虜が亡くなった。

亡くなった人たちは、食料も水も十分に与えられていて、拷問などによる身体的外傷がないにも拘らず、たった2日間で死んでいった。

捕虜には、パートナーからの離縁状を突きつけ、両親の死を伝えた。自尊心を挫き、自分がいかに悪いかを自己批判させた。未来に対する希望を徹底的に打ち砕いていった。

生きて帰っても、パートナーは他の男性と結婚すると言っている。自分の帰りを待っている人間は誰もいない。何の能力もないどうしようもない自分、その先を生きることに希望を見いだせなくなった。

その後、彼らはたったの48時間以内に息を引き取っていった。

人は未来に希望が持てなくなったときに生物的な死を迎えるのだ。

言葉は人を殺すことが出来る。

ここ最近の日本社会でも、電通で24歳の女性社員が過労自殺が起き、ゼリヤ新薬での新人研修で自殺者を出したというニュースも記憶に新しい。

悲しくも命を奪われてしまった彼らは、未来に対する希望を奪われた。これからの人生も延々と悪いことが続き、自らもダメな人間であると洗脳された結果、死に追いやられた。

暴言とその影響力を無視しない

人が精神的な暴力によって死ぬことがわかれば、それを容認すべきではないことがおのずとわかるだろう。

人を殴ってはいけないように人に怒鳴ってはいけないし、人をナイフで刺してはいけないように人を自殺に追い込んではいけない。それらは同等の暴力である。

人を殴り続ければ死ぬように、暴言を浴びせ続ければ人は死ぬ。言葉には致死量がある。

身体的な暴力を認めないように、精神的な暴力に対しても同じように反対する必要がある。

親から子に対する暴言。精神的な虐待。教師から生徒に対する否定。上司からの根拠のない暴力。物理的に危害を加えなければいいかのような考えは、やはり少し甘いのだろう。

言葉の方が深刻なダメージを人に与えることもある。虐待を受けた子供のうち、身体的な暴力を受けた子供より、暴言を受け罵られた経験のある子供の方がトラウマ反応が強い。

悲しいことに、この国の若者の死因の1位は自殺である。

大量の自殺者を生み出しているこの国は、このままではいけないと思う。多くの人が同じように思うだろう。自殺者が死因のトップであることは、言葉の暴力を容認してきたことが、この異様な事実を作り出しているのではないだろうか。

言葉は人を生かすこともあれば、殺すこともある。

言葉によって人との繋がりを得ている私たちは、その事実を学んでいくべきだろう。

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