「舐められたら困る」と言う教育者は何故ダメなのか

教育の場に行くと、大抵の場所で「生徒に舐められないように」とか「舐められたら困る」といったフレーズを聞く。なんだってそんなヤンキーみたいな価値観で教育をしているのだろう?
舐められたくない先生
学生や子供と関わることが何度かあったのだが、そこでよく聞くのは「舐められないように」という言葉だった。
みんな生徒に舐められるのが怖いと言う。
それは、「生徒に舐められたら、言うことを聞いてもらえなくなる」という理屈らしい。だが、そもそも生徒は先生の言うことを聞くために存在している訳じゃない。
自分の言うことを聞いてもらえるかもらえないかは、相手が決めることだ。ちゃんとしたことを言えば相手も話を聞いてくれるし、根拠のないことを話していれば誰も聞いてくれない。そんなことは当たり前の話だ。
相手には舐められたくないとか言っているくせ、自分のことは「信頼してほしい」らしい。自分んが何もしないのに無条件の信頼を相手に求めてしまう。どんな時も先生として慕ってほしい。
でも、自分が相手を信頼していないのに、相手が自分を信頼するわけがないだろう。
生徒たちをいちいち舐めてくる「敵」のように認識しながら、信頼関係が結べるわけがない。人は、自分を信頼していない人間を信頼したりはしない。
敬語を話すように言えば、確かに敬語を使ってくれるだろう。だがその敬語は尊敬しているからではなく、「文句を言われない」ためにだ。その丁寧な言葉を口にするときに考えているのは自分のことであって、敬語を使う相手ではない。
自分が虚勢を張って「舐められないように」しているから、生徒も虚勢を張って「舐められないように」態度を変えていく。
舐められないように威張り散らす生徒を、先生は「手に負えないやつだ」と思っているが、生徒も威張り散らす先生を「手に負えないやつだ」と思っているのだ。
これではただ悪循環を生み出すばかりで、誰も望まない関係が出来上がる。
信頼してほしいなら先に信頼する
舐めるとか舐めないという考えが浮かんでくるのは、結局自分のことしか考えていないからではないだろうか。
「生徒のためを思って」と口では言いながら、内心は自分がどう見られているかが気になっている。そんな態度をとりながら、自分のことは信頼してほしいし尊敬もしてほしいと望む。
だがそれは無理な話だ。
人に強制できないものが二つ存在するという。それは愛と尊敬だ。
たまに「尊敬を強制できる」と思っている人がいるがそれは勘違いだ。彼らがなぜ勘違いをしてしまうかと言えば、上辺だけは尊敬してくれる「演技」をしてくれるからだろう。
どちらも上辺だけで尊敬している「演技」や、愛している「演技」はしてくれるが、心の底では相手を見下しているから、当然尊敬も愛してもいない。
ただの演技を愛と呼ぶことも、尊敬と呼ぶこともないだろう。
与えてもらいたいならまずは自分から与える必要がある。自分だけ相手を疑っているのに、相手が自分のことを信じてくれることはない。
尊敬してほしいなら自分から相手を尊敬するべきだし、信頼してほしいならまずは自分から、相手を信頼するべきだ。
「尊敬しろ!」と言って覚えるのは、「尊敬しろ!」と言って相手を屈服させる方法だけだ。だから本当に尊敬を覚えてほしいなら、相手を全力で尊敬する必要がある。