多様性より「多様性理解」が大切な理由

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違いを認められない社会で

最近は、世代だけで文句を言われたり、理不尽にレッテルを張られる様子を目にする。そんな機会が、嫌という程に多い。

年功序列の空気が残るこの社会で、差別や決めつけは、立場の弱い若者に向けられることが多いが、誰かが理不尽な扱いを受ける様子は見ていて気分が悪くなるものだ。

「自分たちと違うから」

「常識と違うから」

大抵の場合は、「違う」という理由だけで文句を言われている。それだけでダメなものとして扱われてしまう。

まるで人と違うことはいけないもののように勘違いされてしまっている。

本来、私たち人はそれぞれが個性を持っており、全て異なったものだ。「違う」ことは当たり前で、一見似通った外見を持ちながらも、多様性に富んだ違いを持つ。

多様性とは

違いを認められない一方で、皮肉にもこの「多様性」と言う言葉をよく聞くようになった。外国人だとか、LGBTだとか、そういった人たちが混ざっていることを、ある意味で「わかりやすく違う」人たちがいることを好んでそう呼ぶ傾向がある。

アメリカやベトナムとかインド出身の人がいて、異なる宗教観を持っていて、女性同士のカップルがいたりすることを多様性だと言うのだ。

しかしながら、多様性とはそれだけのことを指しているわけではないと思う。

わかりやすく女の子が女の子を好きでなくても、私たち人には違いがある。

テニスが好きだったり登山が好きだったり、映画を観るのが好きだったりする。同じ映画好きでも、毎月のように映画館へ足を運ぶ人や、家でゆっくり映画を楽しむのが好きな人も、ポップコーンが欠かせないという人もいる。一般的な女性より繊細な男性もいれば、一般的な男性より屈強な女性もいる。物事を冷静に見る洞察力を持っている人も、瞬発力に優れた人もいる。

それぞれが異なる表情を持つように、考え方や感じ方というものは驚くほどの多様性を持っているのだ。世間で叫ばれている「多様性」とは本当に大事なものなのだろうか?

多様性よりも、「多様性理解」の方がよっぽど大事だと私は思う。

私は外国人だから異なっているとは思えない。その人類の大半を占める「外国人」と呼ばれる人たちの中には、気の合う人も、話すことすら嫌な人もいる。

でもそれは同じ国の人同士でも変わらないことだ。「この人は嫌味ばかりで関わりたくないな」と思うことや、「本当に面白い人だな」と興味を惹かれることに違いはない。

わざわざ違う人を作らなくても、そこに多様性は存在している。問題は、それを理解しようとする姿勢があるかどうかだ。

多様性より多様性理解を

人と人との違いは、国の違いや歴史の違い、人種の違いによるものだけではなく、それぞれが存在するだけで生まれる。

違いは悪いことではなく、ごく当たり前に存在するもので、違うことが普通とも言える。自分と隣にいる人が違うのは当たり前なのだ。

だから人と違うあなたには価値があるし、それが多様性を産んでいる。存在するだけで世界に色を増やしている。

違いを認められる世の中であってほしい。心からそう思う。だからこそ他の人と異なる自分自身を認めてほしいと思う。

多くの人が、他人と違う自分を悪く思わないように、自信を持って生きられるように、そう願っている。

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