シェルターで生き延びた先の世界で生き残れるか?

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最近、軍事や戦争に関する報道が増えた。

「シェルターで国民を守る」そんなお気楽なニュースまで目に入るようになった。

しかし、どのようにしたら国民(1憶3000万人)がシェルターの中に入れるのだろうか?今、どこにそんな場所があるのだろうか?

世の中の言説は、まるで現実的な対策を考えているようで、現実のことなんて何も考えていない。誰も考えていない。みんな目先のことばかりで、その後に何が残されているのか見ようともしない。

それでも、国民(ごく一部)と言うのなら、嘘にはならないとでも言うのだろうか。

みんな核戦争後の地球を想像するのを避ける。現実を直視するのが怖いんだ。偶然耐えられたシェルターの中で数人だけが生き延び、家族や大切な人が死に絶え、外に出ることさえ出来ない社会が待っているとは、思いたくない。

もし宝くじに当たるような確率であなたが生き延びても、あなたの家族は爆弾で無残に死んでいるだろう。放射能の汚染によって見ることも憚られる姿になっているかもしれない。

軍備がどうとか、情勢がどうとか、経済がどうとか、平和がどうとか、そんなことばかりに目を向けて、誰もその先の未来に目を向けない。

少し長いが引用しよう。これはアインシュタインを含む世界で最も優秀な科学者たちが残した宣言の一部である。

一般の人々、そして権威ある地位にある多くの人々でさえも、核戦争によって発生する事態を未だ自覚していない。一般の人々はいまでも都市が抹殺されるくらいにしか考えていない。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾が1発で広島を抹殺できたのに対して水爆なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような巨大都市を抹殺できるだろうことは明らかである。

信頼できる権威ある筋から、現在では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を製造できることが述べられている。もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能をもった粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちとその漁獲物を汚染したのは、この灰であった。そのような死をもたらす放射能をもった粒子がどれほど広く拡散するのかは誰にもわからない。

しかし最も権威ある人々は一致して水爆による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水爆が使用されるならば、全面的な死滅がおこる恐れがある。――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数のものはじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊してゆく。

日本パグウォッシュ会議より

恐らく、私たちの大半よりもずっと聡明な彼らは、核戦争が地球の終わりであることを予見している。少なくとも、それが人類史の終わりであることを知っている。

誰よりも科学に精通し、今もなお偉人として語られる彼らが出した答えは、「核戦争を起こせば全面的な死滅が起こる恐れがある」というものだ。70年も昔の、今よりずっとアナログだった時代の技術力で広島は破壊された。今の技術力によってその数千倍もの強力な爆弾が製造できる。もしそれ程強力な爆弾による戦争を起こした時、その後の地球がどうなるか想像するのは難しくない。

私たちの作ってきた社会は、核の爆風には耐えられない。私たちの体は、核の冬には耐えられない。戦争に勝てばいいと言うのは、この世に存在するどこまでも都合のいいファンタジーよりも酷い妄想である。

その先に私たちが生きられる環境は存在しない。人の住めない世界に勝者など存在しない。まるで戦争があっても何事もなく普通に暮らせて、仕事にも行けて、家にも帰れて、そんな生活があると思い込んでいるのは、あまりに甘い考えだ。アインシュタインが言うように水爆や核による戦争によって消滅するのは大都市だけではない。爆発と共に降り注ぐ大量の放射能によって、私たちの体は崩壊していく。

放射能による死に方はあまりにも無残だ。広島の原爆によって亡くなった人たちや、チェルノブイリ原発事故によって亡くなった人たちの記録を見ると、言葉に表せない程の苦しみを負っていたのがわかる。人は死に方を選ぶことは出来ない。だがこんな死に方は、あまりに辛い。

彼は礼装用制服をきせられ、胸のうえに制帽が置かれた。靴ははいていなかった。足が腫れすぎて合う靴がなかったのです。制服も切られていた。完全なからだはもうありませんでしたから。ふつうにきせることができなかったのです。からだじゅう傷だらけ。病院での最後の二日間は、私が彼の手を持ち上げると骨がぐらぐら、ぶらぶらと揺れていた。骨とからだがはなれたんです。肺や肝臓のかけらがくちからでてきた。夫は、自分の内臓で窒息しそうになっていた。私は手に包帯をぐるぐる巻きつけ、彼の口につっこんでぜんぶかきだす。ああ、とてもことばでいえません。全部私の愛した人、私の大好きな人。

チェルノブイリの祈り(岩波現代文庫)より

放射能による死は読むのが辛くなるほどに悲痛だ。誰もが、こんなことが大切な人の見に起こるなど想像もしたくない。それでも、それは現実に起こってきた。70年前の戦争でも、原子力発電所による事故でも。それを見ようとしてこなかったから、繰り返された。

誰が放射能に蝕まれながら死んでいくことを望むのだろうか?その事実を見ないままに、現代の戦争を我が物顔で語る姿はあまりにも愚かだ。戦争でどこかの国が滅んでも、核が降り注いだ世界で私たちは生きられない。

頑張って働いて稼いだお金も、今まで守ってきた家族も、ずっとかけてきた保険も、保ってきたあらゆる人間関係も、すべてが無に帰す。

もし爆弾が落ちる瞬間偶然シェルターに入ることが出来て生き延びたとして、その先でどうするのだろうか?家族も友人も誰もいない世界で何をするのだろうか?

偶然生きていた人たちは、酷い放射能汚染に苦しんでいるかもしれない。骨から肉がはがれ、触れることさえ出来ないかもしれない。

シェルターで生き延びて何をするつもりなのだろうか?死んだ地球の上で、みんなより少しだけ遅れて死に絶えるのだろうか?

進歩してきた科学力に対して、私たちの頭の中はずっと停滞したままだ。何十何百という時の流れを得ても、過去と同じような争いを止めることが出来ていない。人は過ちを繰り返す。いつまでたっても、歴史を学ばない子供のまま。

それでも、そんな時間はもう終わってしまったのだ。

子供の玩具にしては強大すぎるモノが、既に私たちの手元に置いてある。権力という安酒を持った子供の目の前に。それは、永遠にも見える世界にもう時間がないことを意味している。

悲しいが、戦争を起こした時点で我々人類の負けである。その先に私たちが生きる社会は残されていない。

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