若者と貧困―誤解とレッテルにより見過ごされた貧困世代

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若者たちは貧困のうちにいる。そう言われて、その言葉をまっすぐに受け入れられる大人はどれだけいるだろうか?

正直言って、あまりその姿を想像することは出来ない。人は自分自身で認識しているよりもずっと盲目である。自分の知識の外側にあることが目に入ることはない。知らないことは、たとえ目のまでで話されていても耳にさえ入らない。

今は物に溢れているから、若者は貧困ではなく豊かだとさえ思っているかもしれない。しかしそれは誤りである。

現実と理想のギャップ

私たちの持っているイメージというものは、自ら持ったものではなく誰かに作られたものだ。テレビや新聞などのメディアによって、視聴者に喜ばれるように作られた「わかりやすい」イメージ。「馬鹿にもわかるように作れ」と言われて作られてきた、単純すぎて誤解を生みかねないような都合のいい想像。それが、私たちが持っている若者像になる。

だから実際に多くの若者と関わってみるとそれが誤りであることを教えられるし、いかに一方的な情報が世の中に溢れているかがわかる。

礼儀正しく気持ちよく感謝を表せるような若者たちや、自信を喪失し未来に希望を持てない彼らの現状が見えてくる。

つい最近、社会福祉士の藤田孝典さん著書の「貧困世代」という新書が出版された。そこに書かれているのは、努力ではどうしようもない社会の仕組みにより苦しめられている若者たちのリアルな実情や、データに基づく政策的な問題点だ。

同書でも指摘されているが、この社会問題は自己責任という歪んだ認識によって見て見ぬふりをされている。社会の仕組みによる問題のはずが、個人の努力や正確によるものだと責任転嫁されている現状がある。

自己責任と言う無責任な態度では何一つ問題を解決することは出来ない。そればかりか、見て見ぬふりをしてきた責任が肥大化し、気付いたころには取り返しのつかない程の質量を持って自らに覆いかぶさってくることになる。

貧困は個人の問題ではなく社会の問題だ。それを認め取り組まなければ、少子高齢化で先細った土台はされに細く削り取られ、システムは崩壊し土台から崩れることになるだろう。

ブラック企業と「人材」が配給されるシステム

ブラック企業という名が使われ始めてから10年以上になるが、労働基準法を破り社会の資源を食い荒らすその企業が無くなる気配は一向にない。

昔は、労働組合が生きていたためそのような理不尽な要求をする企業とも戦うことが出来たが、今ではその労働組合の組織率も激減し、働き手と企業の関係は悪化した。もはや働き手が正当な報酬をもらうための交渉すら出来なくなった。

起業によって労働者の福祉が守られていた時代は、賃金も働き続けることによって上がっていったし、将来に希望を持ちながら努力することが出来た。しかし現代に残ったのは、保証もない、賃金も上がらない、だが拘束や労働は依然として強いというチグハグさ。

非正規労働者が4割にもなり、正社員という名の名ばかり正社員も増大している今、将来に希望を持ちながら働くことなど出来ない。非正規ではいくら努力しても安定した生活は望めず、非正規並みの待遇で働く名ばかり正社員は自らの人生を犠牲にして会社に貢献している。

視野が狭い人は「頑張りが足りないからだ」と決めつけているが、頑張りが足りれば何とかなったのは昔の話である。今の話ではない。

企業に力があり、従業員の生活を保証することが出来ていたからこそ成り立っていた方法を、生活の保証すら失った現代でも継続することは不可能である。

「選ばなければ働く場所はある」というのは嘘で、非正規労働者や派遣などの都合のいい部品は、「壊れたら交換すればいい」かのような無茶な働き方を強いられ、精神を病みその後もハンデを背負わされながら生きることになる。そしてそのような企業を選ばずに働き手が配給され続ければブラック企業は永遠になくならない。働く先は選ばなければいけないのだ。社会は、健康で文化的な生活を権利として持つ市民に対して、その選択肢を与えなくてはいけない。

起業が弱体化し、働き手が守られる仕組みが弱まったにも関わらず、労働に関する教育は未だに旧態依然としたままだ。学校は、これから社会に出て働く存在になるにも関わらずに労働基準法すら身に付けていない無知な存在として生徒を会社に送り出す。だからルールもわからない若者に無理な働き方を押し付けるブラックバイトも無くならない。学生も仕事とはこういうものなのだと勘違いしてしまう。

最近はようやくブラックバイトユニオンや、個人でも入れるようなユニオンが結成されてきた。起業と働く側のパワーバランスが適切でなければ適切な労働は生まれない。バランスの崩れたそれは、旧来の奴隷制度と一体何が違うのだろうか?

お金と住居

多くの就活生が、仕事を求めて東京まで来る。

東京で仕事が出来ても若者の賃金はとても低いが、家賃は高い。高い家賃を払い、保険料を払い、年金を払い、奨学金を払っていては、簡単に赤字になってしまう。驚くべきことに今は学生の50%が奨学金という名の借金を負いながら学校へ通っている。

昔は大学に数万円で行けたが、今は国立でも50万以上、私立では数百万円にも及ぶ大金が必要になった。最近はその国立も高騰している。

だからと言って現代で大学に行かないわけにはいかない。大学に行かなければ就活で弾かれてしまうからだ。だから借金をしてでも高いお金を払って大学に入学するしかないのだ。

若者の車離れなどが嘆かれているが、そもそもそんな金など初めからないのだから車なんて金のかかる商品を買う訳がない。仮に車が好きな若者がいても昔のようには買えない。

政府は経済成長がどうとか、雇用が良くなっているだとか、自分に都合の良いことばかりを並べるが、実質賃金は下がり続けている。実質賃金が下がっているのに消費が伸びる訳がないのは当然だ。

日本では殆ど聞くことが出来ないが、海外では住居政策こそが最大の福祉だと言われている。低家賃で安心して暮らせる住居さえあれば、ホームレスは社会に出てこない。

他の先進国では若者の実家暮らしの割合は大体1割程度だが、日本の場合は4割にまで上る。若者が実家を離れないことが話題になるが、その本質にまでは突っ込んだ議論は行われない。

前述したように一人暮らしをしたところで、安い給料から高い家賃を取られ搾取されるだけのため、元々ある実家という資源にすがるしかないのだ。住居政策に全く力を入れていない日本で実家暮らしの若者が多いのは当然である。仮に親と不仲であっても、一人暮らしがしたいと願っても、社会政策として実家を出るという選択肢がそもそも存在しないのだから。

分断されたクラスタと理解

問題に気づく人が存在しなければ社会問題が解決の方向へ向かうことはない。臭い物に蓋をして、見て見ぬふりを続けている間に問題が肥大化するだけだ。今の社会はその問題に気づけないほど分断されてしまった。

低所得者は低所得者としか関わわらず、一部の上流階級は同じ階級の人とのみ関わる。より一般的に考えても、同じ会社の人間しか関わり合いがなく、外の世界を知らない井の蛙のまま人生を終える人も珍しくはない。

社会の構造による問題すら自己責任にされてしまうこの社会に持続可能性はない。問題が生じても個人の責任になり腐敗した構造は一向に改善される気配はない。自分と他人と間にあるその塀が幻想だということに気づき、理解を深めること、それが今の社会に必要なことだと私は思う。

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