「お前もパワハラを受けろ」そんな大人にならないでほしい

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「自分もパワハラを受けたからお前もパワハラを受けろ」そんな大人になって欲しくないと思う。

自分が不利益を被ったから、他の人も同じように不利益を強いる。それを言い換えれば「悪い状態の現状維持」であり、悪循環そのものだ。

「悪いもの」を「悪いまま」社会の中に残すような考え方は、社会を担う人としてあまり勧められない。(残念なことに、そんな子供の様な態度を持つ大人も多いのだが)

その言葉からは、この社会を良くしていこうという気概が一ミリも感じられない。言ってしまえば「自分が大変だったからお前も大変な目にあえ」というただの意地悪だ。感情的に、他の人にも不利益を被ってほしいというような子供の我儘なのだ。

まるで世の中の「常識」を語っているように見せながら、実際は自分のことしか考えていない。

本当は、社会には良い所も悪い所もある。だから日々議論して、良いものをより良くして生活の質を上げていく。そして、悪いものはなるべく改善していく必要があるはずだ。

何故肯定したくなるのか?

自分が体罰を受けたから体罰を肯定し、自分がパワハラを受けたからパワハラを肯定する。そんな大人をよく目にする。もちろんそれは、彼らの声が大きいだけで一般的な意見ではないが、殆どの人が似たようなセリフを聞いたことがあるだろう。

しかし、基本的にそれは過去の正当化に過ぎない

「もし自分の受けた扱いに正当性がないのだとすれば、自分の受けた屈辱はどうなるのだ?」と自らの経験を受け入れられないのだ。誰もが「過去の辛い経験に意味がなかった」とは思いたくない。

しかしながら、その人が「自分もやられたから」という理由で暴力を繰り返してしまうように、その暴力に正当性はない。もしかしたら、自分が殴られたのはただの憂さ晴らしだったかもしれない。

誰だって、自分が受けてきた扱いの中に不適切だったものがあるだろう。間違っているものを受け継ぐ必要はない。学校では先生に教えられたことを一語一句間違えないように暗記させられるが、そもそも先生が言ってることが間違っている可能性もある。

だからただ「自分はこうだった」というだけで他人にも押し付けてはいけない。

そこには思考がないのだ。自分がどうであったというだけで、客観的に物事を見ようとする視点がない。もし自分の世界が全てだと錯覚してしまうと、自分の過去をすべて肯定してしまう。誤りのない不思議な世界が出来上がる。

過去は正しいわけではない

自分が受けたことが、必ずしも正しいわけではない。

だからこそ、おかしいことは「おかしい」と判断し認める力が必要なのだ。

傷つけばその分強くなれるとは限らない。筋肉は傷つけば修復され強くなるが、傷つきすぎれば壊れて使い物にならなくなる。人の心も似たようなもので、多少の困難なら乗り越えられるが、過剰なストレスは人の心を破壊しトラウマを植え付ける。

「自分もパワハラを受けたからお前もパワハラを受けろ」そんな大人になって欲しくない。私は、理不尽に嫌な思いをする人が減っていったら嬉しいと考えている。

そして若い人たちもそう考えてくれたら嬉しいと思う。そしたらきっと、今よりも良い社会を作れるだろう。

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