「叱らない教育」には意味がない―叱らないことへの誤解

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勘違いされる叱らない教育

世間で広まっている”誤った”叱らない教育には意味がない。

嫌われる勇気が有名になり、叱ることも褒めることも否定するアドラー心理学が広まってから、この叱らないことを良しとするような言説が目立つようになったと思う。

もちろん叱ることは良くない。叱るのも怒るも同じく幼稚で暴力的なコミュニケーションだ。人に何かを教えることに怒りは不要だ。

そして褒めることも同様に良くないとされる。上から目線で、子供の勇気をくじく行為だからだ。それは上下関係を意識させ、自立を阻害するだろう。

ここで考えなくてはならないのが、叱らないことは何も教えないこととイコールではないということだ。

教育者は子供に、「悪いことは悪いことだ」と教えなければならない。

間違った行いをしたときには、その責任を取らせなければならない。

見過ごされているが、強く怒鳴るわりには、なし崩し的に子供の責任をなかったことにしてしまう、そんな親が多いように感じる。

怒鳴ることと厳しいことは違うのだが、怒鳴ることを厳しいことをイコールのように認識してしまっているのだ。

悪いことをしたらその責任を取らせる

スーパーで買い物をするときに、子供が走り回って、お菓子を買って貰えなくなるのは当然のことだ。

そこでいくら奇声を上げても、床に寝転んでも、間違っても買ってはいけない。それが走ってはいけないところで走った子供の責任だからだ。自らの行いに責任を取る、そんな学ぶ機会を奪ってはいけない。

どれだけ間違っても、感情的に怒鳴り他人に危害を加えることにより、自分の要求を押し通すようなことを教えてはならない。

その教育は、将来他人を傷つけ社会に害を与える教育だからだ。

親にとっても、「周りのお客さんに迷惑になる」と気が気ではないかもしれないが、そういった感情で他者を支配する思考を持って大人になれば、それとは比較にならない程他者に迷惑を掛けることになってしまう。

だからこそ、そこで、まだ体の小さい内に、しっかりと責任を取る姿勢を学んでもらう必要がある。

いけないことはいけないと、断固たる姿勢をとる。厳しいとは、そういうことだろう。

適切な対処法を教育する

もし子供が解決策がわからないのであれば、それを提示する必要がある。

自分が人に何かを与えてもらいたいのであれば、まずは自分から人に与える必要がある。

「自分はお菓子が欲しい」
「お母さんがスーパーでは走らずに静かにして欲しい」

それなら、静かにして、相手の要求を受け入れることによって、自分の話を聞いてもらえると教える必要がある。

特に小さい頃の場合は、その解決策を「単純に知らない」場合があるからだ。

母親に買ってもらった帰り道に、父親がこう話しかけてあげればいい。

「あれがそんなに欲しかったのか?じゃあ、お母さんは君にどうしてほしかったと思う?お母さんがしてほしいことを考えて、それをすれば、きっと次は買ってもらえるよ」

もちろん夫婦の役割が逆でもいいし、一人親なら友人居協力してもらうのもいい。

あるいは、子供に「家族の一員として」の役割を持たせるのも良いかもしれない。

「今日の夕飯はカレーライスを作ります。お母さんはお肉を買ってくるから、玉ねぎとジャガイモを取ってきてくれる?」

「お買い物を手伝ってくれたから、好きなお菓子を1つ買ってあげるよ」

こうすれば、人のために働いて報酬を得る。いわゆる「仕事」を覚えることだってできる。

人を傷つけずに自分の要求を聞いてもらうこの社交性は、社会で生きる上で絶対に必要な能力だ。是非身に付けさせてあげてほしい。

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