年功序列から外れよう―広い視野を持つために

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年功序列には昔からずっと違和感を持っていたのだが、それが不要だということがようやくわかってきた。

そもそも年功序列は日本の伝統などではないし、中国から渡ってきた儒教的な文化だ。江戸時代の日本も年功序列ではなかったし、これは均一的な教育がなされるようになったことと、その儒教の考えが浸透したことによって生まれた考え方と言われている。

もちろん、そういった伝統やルーツを考えずにその論理や有効性だけをもって考えたとしても、それに意味があるとは思えないのだ。

もし年上というだけで偉いのであれば、私が年上というだけで羽生結弦さんや藤井六段より上だということになる。(もちろんそう言う人はいないだろう)

実際に私はスケートなんて普通に滑ることしかできないし、将棋だってルールを知っている程度なのでいくらハンデをもらっても敵わないだろう。私の方が偉いと勘違いしたところで、同じことをやらされれば大恥を書くのは目に見えている。

言うまでもなく、彼らはとても尊い。それは誰もが認めるところのはずだ。

これは例に出した特別な人だけに言えることではなくて、誰だって自分の知らないことを知っているし、そこに縦軸の序列は相応しくない。

たまたま先に生まれただけの私たち

私がどうして私より若い人たちより年上なのかと言えば、たまたま私の両親が私を彼らより早い時期にこの世に産んでくれたからだ。

決して霊界の様な場所で得を積んできたからでもないし、何か高貴な魂を持っている訳でもない。たまたま早く生まれてきたから、1世代前の人生を歩んでいる。それだけの話だ。

それで、どうして私は彼らより偉いのだろうか?そこに論理は存在しない。せいぜいそれっぽい屁理屈を言って威張ることは出来るけど、やはりそんなことに価値はない。

私はもしかしたら、この年齢になったことを「今まで頑張ってきたんだ」と思い込んでしまうかもしれないが、それもちょっと違う。

大きな目線で見れば、彼らも同じ年齢まで頑張って生きるだろう。きっと頑張ることの種類は違うし、頑張ることの方向性も違うだろうが、頑張ることには変わりはない。

新しい時代に生まれた人たちは、今までの全ての人がやってきたことを上回らなければ認めて貰うことさえできないし、それはとても大変なことだ。古い時代に生まれた人たちは、情報や発展の少ない中で何かを作り出さなければいけないし、それはとても大変なことだ。どちらも求められる能力は違うが、どちらも大変なことは疑いようがない。

途中で亡くなることがなければ、彼らも同じように年を取っていく。もしかしたら私より年上になるかもしれない。だが、それは今はわからないことだ。

あらゆる軸の中で

実際に自分でビジネスやスポーツをすれば生まれた順番に優劣を決めるような価値がないことはすぐにわかる。

なぜなら、年上というだけで私の作り出したサービスが売れることはないし、年上というだけで強敵に勝てるわけではないからだ。そんな簡単にことが上手く運ぶことはありえないだろう。

年功序列は不要どころか、物事を正しく認識できなくなってしまう色のついたメガネだ。それを通して誰かを見ると、その本質を大きく見誤ってしまう。

もちろん、上記の通り一度でも勝負をしたことがある人なら既に体験的に気づいているはずだ。自分よりずっと若い才能に出会うことも、自分の2倍以上年を取った人から思わぬ新しいアイディアに驚かされることもあるということに。そして、それらは決して年の差によるものではないこともわかっているだろう。

世の中の人はつい”1つの縦軸”で考えがちだが、世の中は数え切れないほど多くの縦軸が存在する。

私はフィギュアスケートという縦軸ではどうしようもないが、ボクシングなら戦えるし、中国語はからっきしだけど、英語なら仕事ができる程度には話せる。

また別の誰かは、人前で話すのは緊張するかもしれないが、誰よりも人に優しくできるかもしれない。文章を書くのは苦手かもしれないが、絵を描くのは好きかもしれない。

そんな、あらゆる観点から人をみるような広い視野が大切なのだ。年齢という一つの軸ではなく、もっと大きな規模で考え、異なる種類の特性で人を考えることが。

人のすばらしさは何か特定の部分だけで評価できるものではないし、あなたの素晴らしさも同じようにある一つの観点だけで評価できるものでもない。

なるべく視野を広く持ち、様々なものの見方をしてくれたら嬉しいと思う。そうすれば、今よりもずっと見えるものが増えるだろう。

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