ニートやひきこもりについて思うこと

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ニート。ひきこもり。

彼らは一面的に見られることが多いと感じている。一面的と言うのは、「仕事をしていない」ことだけにフォーカスされた見方や、「社会と関わっていない」といった部分のみ言及されることがあるということだ。そのため、この記事では少し異なった視点から考えていきたいと思う。

ニートとひきこもり

彼らは、経済活動的な意味での社会との関わりは確かに薄いのかもしれない。それでも衣食住は満たさなければ生きることは出来ないので、全く関わりがないわけではない。少なくとも1人分の衣食住にお金が動くことになる。何かを購入することもあるだろう。これらも経済の一つだ。

また人との関わりも少ないのかもしれない。外に出て誰かと会話することが全くない人もいるだろう。それでも、メディアや作品などを通じて世論や人の言葉に触れる。家族や兄弟だけではなく、ネットで他人とコンタクトを取っている人もいる。

しがらみに縛られた社会人と自称する人たちと比べて自由に見える彼らは、言葉で言う程自由ではない。

本当に自由に、何も余計なことを考えずに、高等遊民よろしく過ごすことが出来ているのであれば、さぞ楽しいのかもしれない。しかし実際は何かに悩んでいたり、自分に自信を持つことさえ出来ない。現実ではそういったケースが多いのではないかということだ。

まず、社会的なコンプレックスを持っていることが伺える。私から見れば、この点について他の社会人と何も変わりはない。

彼らもテレビやネットメディアなどを通じて誰かの価値観に触れている。その中で一般的な常識と呼ばれるものや、「こうあるべきだ」という社会の言葉を毎日のように受けている。そして、心のどこかでそれを気にしている。他の大人たちと同じで、そうして植え付けられた固定観念を拭い去るのはどうしても難しい。ワイドショーに出ているコメンテーターの偉そうな言葉や、インターネット上の心無い言葉を彼らも目にしているのだ。

そうしていれば、おのずと働くことに関してや、自身のキャラクター、あらゆるステータスに対して多くの人と同じようにコンプレックスを抱く。社会人たちも、自分に自信を持つことが出来ずに常に周りの評価を伺っている。周りの人がどう思うか、自分がどう思われているのか気になって仕方がない。それは引きこもっていても同じだ。人目を気にしないのなら、家を出ることも人前に出ることも特別なことではない。しかしそれが難しいのにはやはり理由がある。

率直に言って、楽観的にひきこもることが出来ている人なんて稀有な存在ではないだろうか。

ひきこもった経験のある人の話を聞くと、大抵はきっかけの様なものがある。彼らも学校に行っていた。会社へ行っていた。当然だ、日本には義務教育がありその先では多くの人が就職するのだから。元からひきこもっていたわけではない。必ず社会のレールから外れてしまったきっかけがあるのだ。

人間不信に陥ってしまったり、大きなトラウマを抱えたり、人それぞれのケースがあるだろう。普通に学校や会社に行っていた過程の中で家にひきこもる選択をしたのだ。最近はひきこもり新聞という当事者メディアも活動を始め、当事者の経験談を知ることも出来るようになった。こういった媒体でもそういった実態を垣間見ることが出来る。

ひきこもりとそうじゃない人たちの違いは

この社会は、レールを外れた人に優しいとは言えない。仕事をしている人たちや就職活動中の学生たちは、履歴書の空白を本気で恐れている。別に空白があったってなんてことはないのに、職歴に穴が開くのを異様に恐れているのだ。そういった姿は、一度でもメインストリームを外れたら戻ることが難しいことを裏付けている。少しでも普通の道から逸れてしまえば普通でいることさえ難しい。

ひきこもりの中には、気付いたら復帰する機会を見失っていったというケースも少なくないのではないだろうか。仕事なんてものは大人が言うような崇高なものでも大変なものでもない。だが、思い込みというものはとても強力だ。無理だと思い込む時間が長ければ、まるでそれが絶対の様に勘違いしてしまうこともある。時間は問題を解決することもあるが、出口を見え難くしてしまうこともある。

彼らの姿は、自分の価値に悩まされ、様々な評価の中に生きる世の中の人達と何も変わらない。孤立しているはずなのに離れることが出来ていない。そんな中途半端な位置にいるのではないかと思わずにはいられない。人との関わりから逃れようとしているはずなのに、社会的な自分の位置を気にしてしまう。

だからこそ普通の人達と同じに見える。誰もが問題を抱えている。周りに害を与える人間もいる。自分が外れるか、誰かを外すか、そんな違いもある。それでも同じだと言えるのは、普通に働いている人たちも、つまずきその普通の道から外れてしまったとき、仕事をしていない自分を責めるだろうから。ただ、何かの拍子に外れてしまっただけなのだ。あるのは全ての個々人が持っている多様性くらいだ。

同じだと言われて違和感がある人もいるだろう。それはどちらの側にも。ひきこもりの当事者にも会社員にも違うと思いたい人が同じようにいるだろう。また同じだと言われて安心する人もいるかもしれない。どちらにも面倒な人間も、面白い人間もいる。働くのが好きな人も、嫌いな人もいる。

私には、ニートにもアルバイトにも正社員にも公務員にもミュージシャンにも外国人にも友人知人がいるが、そういった枠に違いがあるわけではないのを知っている。

だから、ひきこもりと外に出ている人という枠の間に、人間的に決定的な違いがあるようには思えない。

可能性を忘れない

ひきこもるという行為に関して、どうせなら本当に気兼ねなく趣味にでも没頭して、休暇を楽しんでから、徐々に社会とのかかわりを取り戻していければいいのではないかと私は思う。

休まなければ回復することさえ出来ない。だが精神的なプレッシャーを感じながら休息を取ることは困難だろう。家族や社会、メデイアから発し続けられるそれは気持ちを落ち着けるのを阻害する。重圧から逃れるためには時間が過ぎるのを待つだけでは不十分だ。周りの評価を気にしたり、他人を馬鹿にしたリ、そういったくだらないしがらみから解放されて初めて心を休めることが出来るのではないだろうか。

本気で休んで、全力で遊んでみれば、気づいたら友人が出来たり、また外へと出てみたくなるかもしれない。どうせ休むなら、やりたいことをやってみたらいいのではないか。誰かに嫌な思いをさせなければそれでいい。関わりなんてものは自然と出来てくるものだろう。ひきこもるきっかけが偶然によるものなら、抜け出すきっかけもまた突然に手に入れることが出来るかもしれない。

技術が必要なら技術を身に着け、知識が必要なら勉強していけばいい。今この瞬間に何かを持っている必要なんてない。

人は学習することが出来る。今おはようと言えなくても明日おはようと言うことは出来る。昨日まで知らなかった物語を語ることも、今日知った物事の考え方を取り入れることも、明日知ることになる情報を仕事に生かすことだって出来るのだ。

独房に入っている訳ではないのだから、その可能性を否定するものはない。枷を抱えているのも知っているが、その枷が物理的なものではないこともまた知っている。いつまでも縛り続けられることも、思い込みを捨て去って飛び出すことも出来る。

ひきこもりという状態は永遠に続くものではない。学校に行っていた頃があるように、会社へ行っていた頃があるように、家にいた頃があるだけだ。だから気負いすぎる必要はない。

いつの日か、多様な人々が認められる社会を作れることを願っている。いつでも戻っていくことが出来る、そんな社会を。

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