愛国心とか帰属意識とか、ほんとに必要?

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「人間は愛国心なんか持たない方がいい。愛国心があるから、敵対する国を憎んだり攻撃したりするのです」とスリランカの坊さんが言っていた。

愛国心や帰属意識のように、自らが所属する集団に敬意を持つことを良しとする風潮があるが、それをいいとは思えない。

勝手に好きでいるのはいいと思うが、他人にまでそれを押し付けるのは少し違う。好きなら好きでいればいいのだ。嫌いなら仕方がないし、嫌いだからと言って悪いことはない。

だが、そういった自分の所属する集団を良しとする思想は、他の集団を悪としてしまう場合がある。派閥というものは大抵争っているものだ。

もし自分が所属する集団が正義であれば、敵対する集団は悪になってしまう。そして正義ほど人を殺したものはない。そんなものは誰かを攻撃するための理由以外の何物でもない。

それどころか、何かを攻撃する時以外に「正義」という言葉が使われたことがあるのだろうか。大抵の場合、正義とは「戦う理由」に使われる。

自分の所属する集団という低い目線で見るから、世の中にある様々な問題が解決しないのではないかと疑わずにはいられない。

人が生まれた場所は、母親の胎内であり、病院の中であり、都市であり、国であり、地球である。これは特定の正解があるわけではなく視点を変えるだけで全く異なってくるものだ。

どうせ愛するなら地球ごと愛してしまえばいいだろう。組織や国と言った狭い偶像に縛られず、その枠を広げてしまえばいい。

同じ地球に住む地球人だという認識を持てば、環境破壊に対する対策も変わるだろう。同じ地球人だと思えばみんな大して変わらない。無理に戦わなければ環境を汚染してまで相手に勝とうとはしないだろう。競争を良しとする思想は消えなくても資源は消えていくものだ。

もし宇宙人を見つけてしまったら、次は宇宙生命体にでもなればいい。そうして枠を広げていけば、敵なんて作らずに済むのではないか。

あらゆる場所で目にする争いを見ていると、そう思わずにはいられない。

人々はいつも、自分の陣地を作り、それと敵対する陣地に位置する人たちを攻撃している。そこにある正しさは「自分たちが正しい」という理由すらないもの。相手側は何が何でも悪くて、自分たちは人を殺しても正しいのだ。

集団を「正しさ」としてしまうと大きな矛盾が生まれてしまう。自分の集団が他の集団を攻撃することすら「正しいこと」になってしまう。所属する集団の悪事を隠蔽することも「正しいこと」になってしまう。「相手には攻撃される理由がある」と、いじめっ子が「いじめられる人間に理由がある」というようにくだらない論理がまかり通ってしまう。

愛国心。その愛の裏には憎しみが生まれる。自分たちの敵を攻撃しないと愛国心がないと言われる。自分たちの行動に疑問を示すと愛国心がないと言われる。

そんなものが本当に必要なのだろうか?

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