LGBTsは自然の摂理に反しているのか?

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高校時代には女の子で彼女がいる子がいた、だが、それに対して特に何とも思わなかった。

自分は普通に異性が好きでも、他の人がそうとは限らないことくらい知っていたから「ああ、そうなんだ」くらいにしか思わなかった。

そういう目で見られたら、気持ち悪い

LGBTsの話題になると、「そういう目で見られたら気持ち話悪い」という声が良く聞かれる。

だが、よく考えてみてほしい。そもそも「そういう目で見られたら気持ち悪い」のは異性でも同じだ。

女性はおっさんにそういう目に見られたら「気持ち悪い」と思うだろう。
男性も興味のない人が相手にそういう目で見られたら「気持ち悪い」と思う。

興味のない誰かに性的な目で見られるのは「そもそも気持ち悪い」もの。自分がなんとも思っていない相手が、自分の事を性的な対象として見ていることがわかれば誰だって気持ち悪く感じるものなのだ。

それは同性だからという問題ではない。誰だってそういう目で見られたら気持ち悪い。

同性愛は自然の摂理に反しているか?

同性同士で愛し合うなんて自然の摂理に反している、生物学的におかしいということも聞く。

だが、自然界ではいわゆるホモセクシャルは存在しないのだろうか?否、自然界にも存在する。

例えばゴリラの中でもオス同士で行為に及んでいることが判明している。

上下関係を作らないゴリラのような社会では、同性愛が起こりえるという。ゴリラは勝敗を決めつけることがない。基本的に優しく、抗争になると仲介者が入り、どちらが勝者で敗者なのかという決着を付けない社会性を持っている。

反して、ニホンザルのような上下関係に執着した社会ではホモセクシャルは起こりえないという。目を合わせただけでケンカしてしまうような、常にだれが強者化を決めずにはいられないような社会ではそれは起こらないのだ。

このニホンザルの社会は、昔の日本に似ている。上司に歯向かうことは許さず、ヤンキーは目が合うだけでケンカをする。

その堅苦しい社会から、上下関係はより希薄になり、誰とでも話し合える雰囲気が広がってきた。この言い方が適切かは別として、ニホンザルからゴリラに近づいてきたのだ。

その結果LGBTsと言われる人たちが増えてきた。正確には、自分がそうなのだと告白できるようになってきた。

人の社会も数十年前とは随分とその様相を変えてきた。固定観念は覆され、無駄に上下を作り関係を強制することが少なくなってきた。

社会の変化という視点から見てもそれは自然だということが出来るのではないだろうか。

いつか面倒な枠組みが無くなれば

正社員と非正規社員のように、枠組みを作ることが差別だっていつになったら気付くのだろう。

こんなわかりやすい形でなくとも、女性より繊細な男性もいれば、男性よりずっと強い女性もいる。そこにあるのは多様性であり、もっとフラットに見れば多くの違いをみんなが持っている。

誰だって好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いだ。嫌いな人に好かれるのは良い気がしない。

他人の好きな人を決めつけることは出来ない。

結局、好き同士で勝手に付き合ってればいいのだ。やたらと名前を付けて面倒な枠組みを作るのが大人の悪い所だ。もし違いを認められる社会になれば、自分が男らしくないことで悩んだり、自分が女らしくないことで悩んだり、そうして苦しむ人たちもいなくなるのだろうか。

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