お笑いとマイノリティ差別はイジメの原因となっているか?

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お笑いとマイノリティの差別はイジメの原因となっているか?この疑問をずっと持っていた。

私には、テレビで誰かが笑いものにされていることと、教室やオフィスで誰かが笑いものにされていることの差がわからなかった。

誰かの欠点を指摘して笑う。誰かが違うことを指摘して笑う。そこに違いはあるのだろうか?

ここでは様々な視点からお笑いといじめを見ていきたいと思う。そこから何らかの気付きを得てもらえれば幸いだ。

お笑いといじめ

お笑いといじめ。 この二つの言葉は、一般的には相反するようなイメージを持たれている。前者は明るく楽しそうなもので、後者は暗く憂鬱としたものだ。

しかしながら、この二つの言葉には重なっている部分がある。

それは「誰かをいじって」笑いにすることだ。

誰かを「いじって」笑いを取ること、誰かを「いじめて」笑いを取ること、両者の間に行為としての差はない。

確かに、人を馬鹿にせず誰にも嫌な思いをさせずに笑いを取れるような素晴らしい技術も存在すると思う。しかし、残念ながらそれはテレビで見るお笑いの全てではない。大抵の場合はただ批難され笑われる人が存在する。

みんな誰かの欠点や失敗を指摘して笑う。

「あいつはこれができない」
「あいつはここがおかしい」
「普通の人とは違う」

そう言って笑う。人のことを。

いじめられるキャラクターといじられるキャラクターの一致

「バカ頭が悪い」「チビ」「デブ」「ハゲ」「ホモ」
「無口」「暗い」「滑舌が悪い」「声が高い」「声が低い」

彼らはテレビでの中で良く笑われ、学校の中でも笑われ、会社の中でも笑われている。

テレビで馬鹿にされている人はたいていの場合他の社会の場でも馬鹿にされているのだ。テレビでやっているように、同じように人を馬鹿にして笑いを取っている。

これらの特徴を持つ人は、そのせいで引け目を感じている人も多いだろう。別に悪いことではなくても、それにコンプレックスを抱えさせてしまう。

いじめられるキャラクターの不一致

テレビで笑われる人と言われる社会の中では笑われる人が異なる場合がある。

例えば以下のような特徴を持つ人も世間ではいじめられることがある。

「美人」
「優秀な人」
「優しい人」

意外だろうか?この人達は必ずしもいじめられるわけではないが、嫉妬や自信のない人によるマウンティングによって彼はその笑いの標的になる。

ただ可愛いだけで「ぶりっこしている」とか、ただ格好いいだけで「カッコつけてる」とか、ただ優しいだけで「偽善者」だとか、好き勝手いうのだ。

自分には持てない輝きが羨ましいから、それを無視することが出来ない。

これらのキャラクターを持つ人は、逆にテレビではもてはやされることが多い。しかし、そんな「羨ましい」存在に対して見にくくも嫉妬し、必死でマウンティングする人たちも存在する。

その歪んだ環境では、彼らはいじめられることになる。

いじめとテレビのいじりの「見えない部分」の違い

テレビでのいじりといじめには、大きな違いがある。それは見えない部分での関係だ。

例えば、テレビで誰かを馬鹿にして笑いを取っている人も、カットがかかった瞬間に謝ったり、裏では一緒に遊んだり飲んだりとしていることがある。

つまり、あくまで「いじり」は表面上であり、裏では普通に仲が良い(もちろん例外はあるだろうが)。

それに反して、いわゆるいじめの関係では、人前では普通を装いながら裏でその人間を攻撃している。

要は、いじめの場合は嫉妬やマウンティングなどの小競り合いの対象の為、基本的に仲が悪い。

テレビのいじりは「演技」としての行為で、いじめは「マウンティング」のための行為だ。この違いは大きい。

LGBTsとテレビ

たまに、LGBTsがテレビで笑いの種にされていると、それに対して批判的な声が上がることがある。

フジテレビでも一つの騒ぎがあったが、様々な人が発言をしていた。しかしながら、私はその多くの意見に賛同できなかった。

なぜあれが問題だとされたのだろうか?あれによって「LGBTの人たちが不愉快な思いをするから」だろうか?それは違う。

「LGBTsをお笑いにする行為を見た頭の良くない視聴者が、LGBTsの人を侮辱の対象にしないか」それを恐れたためだ。

「ああ、あれは攻撃してもいい人たちなんだ」という誤った認識を与える可能性があるから、そうならないかの心配する人たちがいたのだろう。それは、よくわかる。

これはデブやハゲと言ったお笑いも同じだろう。容認されていると言うが、容認されてなどいない。「テレビで馬鹿にされていて許せない」ではなく「テレビを見た人が真似したら困る」という不安だ。

しかしながら、LGBTsの差別に対しては、私はテレビが差別を強めているとは思わない。むしろ、彼らの権利や存在感を強めたきっかけにさえなっていると考える。

なぜなら、「男らしさや女らしさ」はテレビが発展する以前から、日本で強く強制されてきたものであり、テレビが原因で「らしくない人」が馬鹿にされるようになったわけではないからだ。

男らしくない男を馬鹿にするのは、女らしくない女を馬鹿にするのは、この国が持っていた古臭い文化である。

むしろテレビメディアで彼らのような人たちが活躍することによって、認められるようになっていったのではないだろうか。

そのため性的少数者に関しては、世間の声とは全く逆の印象を受ける。

お笑いはイジメの原因となっているか?

さて、ここまで様々な視点からテレビのお笑いとイジメ、マイノリティー差別の問題を見てきたが、ここで分かったことがいくつかある。

それは、お笑いはいじめに関与していることもあるし関係がないこともある、という当たり前の事実だ。

いわゆるお笑いでも、明らかに人を傷つけているものがある。テレビで放映される時には大抵カットされていると思うが、それでも悲しそうな表情が映ることがある。周りの人はそれをあざ笑っている。

ようやくそれに対して「可哀想だ」という声が聞こえるようになってきた、「過ぎたるはおよばざるが如し」という言葉の通り、過ぎたお笑いは人の笑顔を奪う。

「こうしたら面白いだろう」という思い上がりが、人の気分を落ち込ませる。それはイジメと何も変わらない。

それでも、私は一度だけ、お笑いのネタを生で見たことがある。どれだけスベろうと、笑われようと、一貫してネタを完遂するその姿はまさにプロフェッショナルだと思った。なかなか出来ることではないと尊敬の気持ちさえ芽生えた。

イジメに繫がる誰かの笑顔を奪う様な笑いもあれば、人の笑顔を増やしてくれるような笑いもある。

願わくば、誰かを虐げあざ笑うかのようないじめが減り、人々の笑顔を増やしてくれるような笑いが増えたらいいと、そう思う。

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