誰かの評価を気にしても正解は選べない

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今を生きているはずの人々は、いつの間にか自分で何かを判断することをしなくなった。何らかの行動をするとき、必ずといっていいほど「誰かの評価」を気にする。

自分がどう感じたかより、他人がどう感じたかで選択するようになったのだ。

失った自分の基準

商品を買うとき、進路を決めるとき、自分の職業を選ぶとき、現代人は必ずと言っていいほど誰かの評価を視点に考える。

しかし、本当に参考にするだけであればいいのだが、「誰かの評価だけ」で決めてしまうケースが多々ある。

そこに自分の価値観は介入せず、あくまで他の誰かがどう思うかで決めてしまうのだ。「ここで働き始めたら周りの人はどう思うのかな?」という基準で職場を選び「ここを辞めたら周りの人にどう思われるのだろう?」と思い辞める決断さえ出来ずに悩み続ける。

自分が今どう思っているのかよりも、他人がどう思うかばかりを気にしている。そこで働き続けるのも異なる職業に就くのも自分自身であるはずなのに、基準になっているのは他人の評価だ。

確かに、他人の評価というのは有効に利用することも出来る。

本当に質の悪いものを買わなくて済むようになるし、自分の気付けなかった良いものを知ることだって出来る。他人が評価してくれたことによって変な企業で働かずに済むかもしれない。

だがそれ故に流されてしまうことも多い。本当に欲しくないものを、誰かが勧めているだけで購入してしまったり、本当は興味のあるものを、誰かが良くないと言っていただけで手に入れることを躊躇してしまったりする。

他人に合わせたところで正解できるわけではない

東京大学教授である亀田達也さんは次のように語る。

「まわりの評価と自分の評価が食い違うとき、ヒトは往々にして、周りの評価に合わせた行動をしがちです(今ひとつのレストランでも最後まで席を立たず、おまけに「おいしかった」とお世辞を言ってしまったりさえします)。先の理論モデルで述べたように、評価の独立性が保てない場合には、エラーの連鎖にストップがかかりません。「冷静になって振り返ると、あの流行はいったい何だったのか、不思議に思う」現象が生じる所以です。」
 『モラルの起源-実験社会科学からの問い』(岩波新書)

自分は本当に良いと思っている対象でも、周りの評価がいまいちだった場合、周りの「いまいちだ」という評価に合わせてしまい、「ああ、そんなに大したことないのかな」と思ってしまうことがある。

あるいは、「ここは明らかにおかしくないか?」と自分では疑問を持っていても、他人の評価が「安定した大企業」だと自分の方を疑ってしまうことがある。

自分の評価は最悪でも、周りが良いと言っていれば「確かにそんなに悪くないのかな」と錯覚してしまう。

これらは、自分の基準を失ってしまったことを表しているのではないだろうか。自分がどう思うのかよりも、他人がどう思うかで評価を下し、そこに自分独自の価値観は存在しない。
 
自分の本当に欲しいものは何だろうか?そこに他人の評価は全く関係がないはずだが、自分の中にある定規をいつの間にか捨ててしまって、気付かないうちに自分では決断できなくなってしまっている。

それでは、誰かの評価がわからないときにどうするつもりなのだろうか?

人はそれぞれ異なる基準を持っている。同じ映画でも楽しいと思う人とつまらないと思う人がいるように、その評価の良し悪しは必ずしも一致しない。

だから常識的な価値観に合わせたところで正しい選択を出来る保証はない。

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