「ひきこもり」と「仕事」を真剣に考える

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ひきこもりと仕事について、最近考えていた。

本当の意味での「仕事」とは

今の仕事や働き方というものは、昔と比べて随分と変わってきた。

技術革新が進み、インターネットにより世界中と繫がることが日常となった今、働き方は以前にも増して多様になった。個人の狭い知識の範囲で知っている仕事より、名前すら知らない仕事の方が圧倒的に多いだろう。実際、私のように家で殆どの仕事をする人もいる。

「社会人とはこういうものだ」という、もはや化石のような価値観は当てにならない。働き方も、社会との関わり方も、そのように限定されたものではないのだ。

最近では、仕事を「お金を稼ぐこと」と限定的にとらえている人も多いが、それは間違いであると言わなくてはならない。

仕事とは本来、「社会の中で何らかの役割を担うこと」だ。誰かの役に立つことと言い換えてもいい。

そういう意味で、料理を作って家族の健康を管理し、家を綺麗に掃除して維持する専業主婦も仕事をしているし、ボランティアで無賃労働に励む人々も仕事をしていることになる。

これは、社会の中で「仕事」をするのに、必ずしも金稼ぎをする必要はないことを意味している。それどころか、金稼ぎだけではこの世の中は回らない。

金稼ぎで世の中が回るのであれば、公務員は必要ないし、ボランティアも要らない。そもそも、公務員はお金を稼いではいないし、公務に勤めるために税金で養われている。ボランティアは、社会の中にある課題を解決すべく、無償で社会に貢献している。社会の中に彼らは存在し、お金を稼がずに社会の中で役割を担っている。

仕事とは、お金と関わることだけではないのだ。

大人たちは、つい自分のやっていることを「大変なことなんだ」と脅したがる。「仕事は大変」それは自分のメンツを守るためでもあるのだが、それで脅して何のメリットがあるのだろうかと考えずにはいられない。

なぜひきこもりを選んだのか

ひきこもりと仕事について考えるためには、彼らが「本当に家から出たくないのか」を考えなくてはいけないと思う。

生まれながらにひきこもりの人は、特殊な人を除けば、いないだろう。大抵の人は少なくとも学校へ行っていて、人によって小学校まで、中学高校まで、あるいは大学までといった違いはあるけど、教育を受けている。

だから当然読み書きも出来るし、不器用でもコミュニケーションも取れる。集団の中に属していた経験がある。

つまり、人と関わったことがないひきこもりはいない。どこかで、嫌になったんだ。

ひきこもりの中には「人と関わりたくない」と口にする人もいるが、はたしてそれは本当だろうか。

それでも彼らは、人の言葉で溢れたインターネットを利用するし、そこで人の言葉や考えに触れようとする。ネットに転がる言葉は必ずしも質が高いとは言えないものも多いが、それでも誰かを求めている。

もし受けれてくれるなら、話したいとさえ思うだろう。

ひきこもりの社会復帰

「ひきこもりからの社会復帰」という話を聞くことがある。聞こえはいいし、皆いいことのように語るが、無条件に喜ぶことが出来ないことがある。

何故なら、就労支援によって就職しても職場の環境が悪ければ、くだらないマウンティングに巻き込まれ、再び社会に幻滅してしまうこともあるからだ。

きっと再び働き始めるまでには、とてつもない努力があったっだろう。周りの人達も、慎重に、時間をかけて関わって、ようやく勇気を出して飛び込んだのかもしれない。

それでも、働きたいという意志があっても、くだらない上下関係に潰されることがある。本人の意思ではなく社会によって。

腐敗した職場環境で馬鹿にされ続ければ、更に自信を失い、本気で社会に対して幻滅してしまうことすらある。それにも関わらずに、働かないことを悪のように言う人間が、働けない人間を作っていることも珍しくない。

不運なことに、社会復帰を果たした人たちが共に働けるような環境は、あまり良いとは言いきれないケースも多い。

ひきこもりに限った話ではないが、一度非正規社員になった人、育児のために休業した人達も同じで、どうでもいいことを理由に、自分たちより下なんだと言う妄想を押し付けられる傾向にある。

この社会は、一度でもレールを外れた人に優しくない。

実際、そこら辺で働いている人の能力差なんて「どんぐりの背比べ」だろう。そこに無理やり上下を付けたところで争いを産むだけで意味はない。(本当に能力差があるのは、数パーセントの天才くらいだろう)

「自分はこいつらより凄い」と思い込んでる人も、「自分は出来ない人間だ」と思い込んでいる人も、大して変わらない。

長年働いている人も知っているし、長年引きこもっている人も知っているが、肩書以外の違いが私にはわからない。当たり前の話だが、どちらも同じ人間だ。

苦しいのはなぜか

ひきこもっていて苦しいのは、きっと真面目だからだ。頑張ろうと思えるから、ただ家で過ごすだけの自分に劣等感を覚えてしまう。

頑張れないとか、根性がないとか、やる気がないとか、そういう世間の声は嘘だ。

仕事もしないで楽に過ごせて楽しい。そう考えることが出来ればどれほど楽だろう。彼らにも「常識」があるから、働いてない自分に劣等感を抱いてしまう。

そんな劣等感もなく過ごしていれば、気づいた頃には何か仕事や関わりを持っているかもしれない。だが、「常識」はそう考えさせてはくれない。

無駄に抱かせた劣等感は枷のようにその人の行動力を奪ってしまう。自信とは行動するための力だ。それを奪うのは、全体として考えた際にも大きなマイナスになる。

寛容性が、社会に必要だと思う。他人の違いを認められるような、多少の失敗を許して、助け合えるような優しさが。

「お前は出来ない」と言って弾いてしまうより、少しずつでも一緒に働いてくれた方が社会にとってもいいだろう。

そんな想像力が、私たちに必要だと思う。

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