学校が自信を奪う?人の自信を失わせる仕組み

人が生まれながらに持つ好奇心

人は生まれながらに好奇心に満ちている。子供は知らないものが目の前にあれば何にでも興味を示し「あれはなんだろう?」「あれに触れたらどうなるのだろう?」と想像力を働かせずにはいられない。

どれだけ親の制止を受けても、未知のものに対して近づこうとする。見たことがない玩具があれば考えるよりも先に手を伸ばし、ゆらゆらと揺れる熱い炎にさえ手を伸ばそうとする。

しかしその好奇心も、人が赤ん坊から子供になり、大人になっていくにつれて薄れていく。興味を惹かれるものが目の前にあっても「あれは自分には手に入らない」「どうせつまらないものだ」と自ら遠ざけるようになる。対象を手に入れるためではなく、遠ざける理由を作ることにエネルギーを注ぐ。

それを超えると、知らないものは興味の対象から恐怖の対象へと変わっていく。未知の可能性は「それなりの現在」を脅かすものだとまで錯覚し、攻撃することもある。

「知らないもの」が「不可能なもの」に変化してしまうこともある。

そういった人は、最終的に自分が想像できる範囲のものだけを見て安心するようになる。変わらないものなど存在しないのに、何もしなければ今の平穏がずっと続くと思いたがる。

何かに挑戦することが、いつからか出来なくなってしまう。それが自分にとって「本当にやりたいこと」だったとしても、それを見極める目はもはや残っていない。

社会との関わりが自信を奪っていく

私たちは、社会との関わりの中で自信を失っていく。

学校や会社などで集団的な規律を学ぶと同時に個人的な自信を失うのだ。

先生や上司という立場が偉いとされている人に従順になる代わりに、自ら選択することが出来なくなり、元々持っている好奇心や自信、クリエイティブで自由な思考などあらゆるものが日々失われていく。

学校や会社では、所属する人たちが固定的な評価の中で順位づけられている。

もしその評価基準が苦手な分野で占められていれば、「出来ない人」扱いされてしまう。たとえその人が、評価基準に含まれていないその他の部分に素晴らしい才能を持っていたとしても、その力が日の目を見ることはないだろう。

「出来る人」とされるのは大抵の場合、「明るくて言われた通りに動いてくれる記憶力の良い人」だ。

そうでない人の評価は著しく低く、外から見れば優秀で能力のある人でも、ローカルな評価基準の中では光らない。多くの人はそれが理解できているから、評価基準の中で良い人になろうと努力する。

画家の濵口瑛士さんをご存知だろうか?

彼は12歳にして画集を出版する素晴らしい才能を持っており、とても可愛らしい絵から、スケールの大きい緻密な絵まで描く。

その中性的なビジュアルもあり今でこそ受け入れられ活躍している彼だが、学校という規律の中で弾かれてしまった一人でもある。

絵の才能は言うまでもないが、歴史に対する知識や興味も人並み以上に持っていた。私が小学生の頃には難しくて到底読めなかった本も彼は読んでいただろう。

私が知らなかった世界の歴史も知っていただろう。しかし、ある欠点によって彼に対する社会科の評価は低かった。

彼は漢字を書くことが困難だったのだ。

学校で評価されない才能

客観的に考えれば、社会的興味もあり知識もあれば社会の評価は高いと思える。

しかし、漢字が書けなければテストでは0点だ。

100の知識を持っていても、50の知識しかない漢字を書けるだけの私に劣っていると誤った評価がされてしまう。本来は彼の方が社会の知識に秀でていたとしてもだ。

算数も、今は解き方まで完全に一致していないといけないというのが教育の基本になってしまっている。彼は計算することはむしろ得意だったと語っているが、解き方を強制されてからは問題を解くことが出来なくなってしまったようだ。

周囲の人との確執もあり、彼は不登校という選択をすることになった。濵口瑛士さんは次のように語っている。

「幼稚園の時、割り算まで出来ていたから、算数だけは大丈夫だと思っていたのに、小学校で最初に算数ブロックを使うようになって、一気に混乱しました。算数ブロックがなければ、今頃は偉大な数学者になっていたかもしれません(笑)。あと、字を書くことが苦手です。普通の人の文字と比べたら、理解不能な暗号のような文字で、はっきりと目に見えてわかります。そのため小学校では見下されてきました。」『黒板に描けなかった夢~12歳、学校からはみ出した少年画家の内なる世界』(ブックマン社)

彼には才能があったが、決められた型の中ではそれを生かすことが出来ず、評価されることもなかった。

大人しく、他人に危害を加えるような性格ではないにも関わらず、周りの子供たちからも虐げられていた。彼の話を聞くと、才能というものは型にはまったものではないことを教えられる。

どれだけ素晴らしい才能に溢れていても、それを認める度量のある場所でなければ評価されないことがあるのだ。人の持つ可能性は、特定のやり方の中で見出されるものではない。

実際に、学校は彼の才能を見出すことは出来なかった。この仕組みの中で、どれほど多くの人が自信や可能性を奪われていったのだろうと想像せずにはいられない。

才能

多くの才能を持つ人が学校という社会の中で生きていくことが出来なかった。

有名なハリウッド俳優であるトム・クルーズさんも、発明王であるエジソンも同じディスレクシアで、彼らも学校からは排除された。ちなみにディスレクシアは識字障害とも言われ、読み書きに困難を抱えていることを意味する。

トム・クルーズは文字を読むことが困難でも、他の人に台本を読んでもらうことによってセリフを完璧に記憶して、素晴らしい演技によって世界中の人を魅了している。エジソンは教師が嘆くほどの好奇心ゆえに小学校さえ中退したが、後に発明王と呼ばれるほどの偉人となった。

しかしそんな素晴らしい才能に溢れた彼らも、教科書を読めないというだけで学校教育の中での評価は低いものになってしまう。

恐ろしいことに、発明王も学校では「落ち着きがない頭の悪い子」だと評価される。このような固定的な基準では多くの才能を潰しかねない。

彼らはそんな常識的な評価には屈せずにその才能を開花させ、常識人には到底到達できない域にまで達したが、仮に才能を持っていたとしてもそこまで達せる人は多くないだろう。