学校の評価は当てにならないから気にしなくていい

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学校の評価が低いと悩むことはない。

「成績が悪い」とか「自分の頭が悪い」だとか「自分はバカだ」とまで思い込んでしまう人までいるが、そんな必要はないのだ。

もし「勉強してもどうせ自分は頭が悪いし 上手くいくわけがない」と思い込んでしまえば、そこで何かを学ぶことを止めてしまうかもしれない。

勉強によって勉強することが嫌いになってしまうのだ。それはあまりに勿体ないと思う。

学校の先生の評価一つでそこまで思い込んでしまうのは悲しいが、本当にそんな必要なんてないのだ。

学校の評価は適切か?

私の美術の評価は低かった。

ずっと昔の、本当にまだ何も知らなかった頃の話だ。

どうして評価が低かったのだろうか?

絵を描くことが嫌いだったか?それとも、ものづくりのセンスが壊滅的になかったか?

実は、そのどちらでもない。

なぜなら私は絵を描くことが好きだったし、物を作るのも大好きだった。

周りの人も、私がものづくりが得意だということ知っていたように思える。

絵に対する評価も、決して悪いものではなかった。

それにもかかわらず、美術の評価は低かった。それは何故だろうか?大人になってみれば簡単なことだった。

私は先生に気に入られていなかったのだ。

何故か私は、美術の先生から不良のグループと同じレッテルを貼られていたようだ。

当時からグループを作るのは好きではなかったので、どこに属することもなく誰とでも関わっていた。

だから、基本的に「どういう人」という訳でもなかったのだが、その「先生」からは悪いレッテルを貼られたのだ。

私に対する対応からもそれが伺えた。

たったそれだけの理由で、それがどれだけ恣意的でも、評価は下がる。

絵を描くのが好きで、ものを作るのが好きでも、その評価は最低だ。

残念なことに、先生の評価というものは必ずしも適切ではない。

幸い私は、そういったものを気にしない性格だったので、今でも絵を描くことやものづくりが好きだ。

しかし人によっては、美術に関するものが嫌いになってしまうこともあるかもしれない。

実際、学校で評価されることによってその評価が嫌いになってしまう人は少なくない。

体育によって運動を嫌いになったり、理系文系という枠組みに捕らわれたり、評価の不透明さに比べてその影響はあまりに大きい。

評価されない才能

もちろん、学校で不当な評価を受けるという話は、私の個人的な経験に基づいて話している訳ではない。

濱口瑛士さんという画家がいる。

彼は非常に若くありながらも素晴らしい絵を描くのだが、学校で評価されなかった人間の一人だ。

濱口瑛士さんは歴史に対して強い興味を持っており、その知識も他の学生よりもずっと深かったのだが、彼に対する歴史の評価は著しく低かった。

彼はディスレクシアという識字障害を抱えており、漢字を書くことが不得意だったのだ。たったそれだけの理由で、歴史に対する知識も興味も深かった彼が得た評価は最低のものだ。

彼は歴史に対して能力がないだろうか?そんな訳がない。

最終的に彼は学校やめることを選択したのだが、幸い彼の才能を認める人たちによって世に出ることが出来た。今では画集も出版してイベントなどにも参加しているようだ。

こういった素晴らしい才能を、運よく私たちは知ることができるが、これも学校によって消されそうになった才能だ。

そもそも学校は、適切に才能を評価する能力を持ち合わせていないのだ。

先生も一人の人

先生という職業に大して、私たちが抱いている印象はあまりにも潔癖すぎる。

確かに「こういう人格者であってほしい」という願望は誰にでもあるだろう。なるべくなら良い人であってほしいと思うのは自然なことだ。

しかしながら、先生だって所詮一人の人間なのだ。

世の中のニュースを見ていれば「先生」と周りから呼ばれる職業の人が、とんでもない不祥事(中には生徒に手を出すものまで)をしていることがわかる。

「先生」と呼ばれる彼らは、決して完ぺきではない。

彼らにも感情があるし、好き嫌いもある。当然、間違える。

そんなこと大人になればわかることだが、子供のうちはそれが絶対者であり「絶対的な評価だ」と勘違いしてしまうことがあるから、気を付けてほしい。

もし、あなたやあなたの子供が学校で「良い評価」が得られなくても気にすることはない。

学校は才能や人の価値を評価する場所ではないからだ。

そもそも、世の中で必要とされている才能は学校の中で評価されるものだけではない。

評価されなかった子供も、大人になれば様々な尺度の中で生きている人がいること知るだろう。

むしろ「数学ができる」とか「社会のテストの点数が高い」とか、それがアイデンティティの人と一緒に仕事をすることは稀だ。

そういった知識で生きている人なんて、それこそ学者くらいなものだろう。

可能性を閉ざしてしまうことはない。人は皆わかりやすく評価されることのない能力を持っているものだ。

人は、それぞれが異なる能力で生きている。

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