何故「少子化」なのに子供を育てられないのか?

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最近あるコミュニティと関わって気づいたことがある。子供はみんなで面倒を見るものだということだ。

そこではまだ1年に満たない子供から、小学生や、中高生、大学生、20代、30代、40代、50代の人たちまで様々な人たちがいる。お母さんが忙しいときにはお父さんが抱っこし、そうでないときは高校生が子供の面倒をみたり、おじさんが遊び相手になったりする。これが自然な社会の姿なのではないかと気付かされた。

子供の面倒を見れない日本の大人

少子高齢化で大人がたくさんいるはずのこの日本では、待機児童が多いという。大人はたくさんいるのに、子供の面倒を見る人が足りない。

何か問題があっても、みんなが自己責任だと言って他人に責任を押し付け合い、自分は関係ないといっている。

核家族化が進み、子供は親が(酷い場合は母親だけが)面倒みるものだといい、誰も手助けしようとはしない。

良いコミュニティに恵まれていない人たちは本当に孤独に育てることになる。勉強は先生が教えるもので、勉強以外でも何か問題が起きれば全て先生に責任が押し付けられる。自己責任という言葉が好きなこの社会は誰かに責任を押し付けるだけで自ら責任を負おうとする人はいない。

責任を押し付けるばかりで、自ら責任をもって考えていくことをしないから、何も問題が解決しない。

社会のために働いてると人は言うけど、子供の面倒をみることは社会貢献にはならないのだろうか?未来を作っていく若い世代に投資することが新しい社会を作っていくことには繫がらないのだろうか?

人の面倒を見るのは大変だ。お母さん一人で面倒見るのはとてつもない重労働だ。それでも生活費を稼がないといけなかったり、全部自分で背負い込んでしまった結果、悲しい事件が現実に起こってしまうこともある。

そういった悲しいことを防ぐためにもやはり、周りの人の力が必要になる。そもそも子供は一人で見るものではない。

分断されたコミュニティの中で

現在は核家族どころかコミュニティが分断されている。

関わるのは同じ学校の友達だけ、話し相手は同じ会社の同僚だけ、職場と家の往復で他のコミュニティを持っていない。

幸運にも周りが素晴らしい人間ばかりの職場であれ学校であれ特に困ることはないのかもしれない。もしそうであるならば人間関係の悩みは最小限に留まるだろう。だがその可能性は極めて低いと思われる。

だからこそ、たった一つの学校の特定の価値観に否定されただけでその人生を終わりにしてしまったり、400万もある企業のうちの一つで消耗品として扱われその後の生きる気力すら失ってしまうこともあるのだろう。

そんな社会に必要なのは様々な人たちがお互いに関わりあえるようなコミュニティだ。会社でも学校でもない、利害関係や上下関係のないフリーな場で、自然な社会を作る必要がある。

いつもお父さんお母さんが交代で面倒見てくれて、よく抱っこしてくれるお姉ちゃんがいて、たまに遊んでくれるお兄さんやおじさんがいる。そういう当たり前に思えることは、子供にとって、あるいは社会にとっても、とても大事なことなのだ。

学校、クラス、会社、部署、業種、みんな細かくカテゴリー分けされて、その固定化された小さな関係の中だけで生きている。子供はお母さんだけが面倒みて、勉強は先生だけが教える。子供が関わるのは親と同じ学校の子だけ。

だが、子供は特定の誰かが見るものではなくて、みんなが関わるものだ。

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