正解に捕らわれると人は盲目になる

正解という盲目
人は何かを絶対視したとき、物事に対して盲目になる。
100%何かを正しいと思い込んだときには他の可能性が見えなくなってしまうのだ。
仮に他に適切な手段があったとしても、それが目に入ることはない。なぜなら100%正しい選択肢がそこにあるのに、他の方法を考える必要などないと判断するからだ。
「これ以上考えなくても正解がわかっている。それなのにどうして他の可能性を見る必要があるのだろうか」
と、他の可能性を閉ざす。つまり極端に視野が狭くなってしまう。もし自分が本当に求めているものが他の可能性の中にあったとしても、それに気付くことが出来なくなってしまう。
特に、多くの人が知っているように、自分の信ずるものが正義だと勘違いしたときは質が悪いものだ。その場合は、自分の信ずる正義以外のものを攻撃することや、特定の考えを他者に押し付けることがある。
攻撃することに正当性を見出してしまう。正しいことをしているつもりだから、そこに罪悪感は存在しない。いや、存在しないように目を瞑る。何かを100%正しいと証明することなど、人に出来るとは思えないが。
古い方法と新しい方法
例えば、古い方法を絶対的な正解だと思い込んだとき、新しい方法を受け入れることが出来なくなる。
予め知っていることが正しいと思い込めば、後から聞いた正しい情報を受け入れることは難しい。
新しく聞いたことに対して、知っていることと比べてどう違うのかという一種の「間違い探し」が始まり、違う=悪いという単純な答えを導き出す。
残念なことに、あらゆる場所でこの論理を目にすることがあるだろう。
鳥が生まれたときに最初に見た生物を親だと勘違いしてしまうように、人も最初に見聞きした情報を正解だと思い込みがちなのだ。
しかし、少し考えればわかるように、最初に見聞きした情報が正しいものだという保証はどこにもない。
更に、これもご存じの通り、情報というものは常に移り変わっていき、問題やその解決方法も時代と共に変化していくものだ。
それならば絶対的な正解などあり得ないと考えた方が賢いだろう。私たちも変化しなければ、物凄いスピードで変化していく時代に適応することが出来ない。だからこそ、頭の中を常にアップグレードしていくことが今の時代を生きる人に必要とされているのだ。
変えるのが面倒だからと言って、いつまでも古いものを使っているわけにはいかない。それはあまりにも脆弱で、新しい情報に適応できず周りに悪影響を与える根源にすらなる。そして孤立し、取り残されることになってしまう。