「あなたは○○が出来ない」という安易な評価より大事なモノ

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コップの中に水が7割入っているとき、あなたはどちらの感覚で評価するだろうか?

水が70%も入っている。
水が30%も入っていない。

日本的な価値観では、30%入っていないことに目が行くと言われている。あるものではなく、足りないものを見る傾向があるようだ。

減点式では正確な評価は出来ない

「〇〇が出来ないからあの人は駄目だ」とか、「○○を持ってないから能力がない」と決めつけてしまうのはとても簡単だ。考える必要がないし、事実がどうであれ結果を決めつけていれば楽なのだ。自分の中の「これとこれがある人が凄い」という定規をただ持っているだけでいいのだから、思考する必要がない。

だがそれでは物事の価値を正確に見極めることは出来ない。

以前、才能を潰してしまう学校教育と普通の子たちという記事を書いたが、普通であれば、発達障害と言われてしまうような子が素晴らしい能力を持っていることがある。それは記事内の濱口瑛士さんもそうだし、トム・クルーズもトーマス・エジソンもそうだった。彼らは普通の学校内で評価はされず、「ダメな子」として評価されていたのだ。

だが、ご存じのとおりトーマス・エジソンは歴史的な発明家だし、トム・クルーズは素晴らしいハリウッドスターだ。濱口瑛士も素晴らしい絵の才能を持っている。

そんな素晴らしい才能に対しても、古ぼけた定規を当てた時の彼らへの評価は「〇〇が出来ない人」になってしまう。事実として、そうなっていたのだ。定規を当てる測り方では「定規に書いていないこと」を評価することは出来ない。

彼より評価されていた人たちが何を成し得たのかは知らないが、他の人たちはエジソンやトム・クルーズが「出来ない子」だと言われるほどの才能を持っていたのだろうか?そう思う人はいないだろう。思考停止して古ぼけた定規を当てるだけでは、正当な評価は出来ないのだ。

大事なのは何ができるのか

何かが出来ないと物事を判断してしまうとき、自分の中にない才能を見ることは出来ない。あくまで自分にできる程度のことの中でしか相手を評価できないのだ。

つまり、相手が自分の設定した狭い枠の外にいる場合はもう対象外で、何ないことにされてしまう。それでは本質は見えないばかりか、その他の可能性を無視してしまう。

何より大事なのは、自分にないものを認める能力だ。人が人よりすべての面で上回っていることはまずあり得ないだろう。

こうして記事を書いている私より、その辺りにいる小学生の方が知っていることやできることが間違いなくあるし、80の老人が知らないことが私の知識の中にあったりする。そんなことは当たり前なのだ。

だが、その可能性を認められるか、認められないかの違いはとてつもなく大きい。

その可能性を認められるとき、人の違いが認められるのだろう。

違いや出来ないことがあって当たり前で、だからこそ何が足りないかではなく「何があるのか」を見ることが出来る。

そしてその価値観が、人を見るときに大きな資産となるはずだ。

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