ゆとり教育からアクティブラーニングへ移行する前に考える1つのこと

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ゆとり教育の次の教育はアクティブラーニングだという。教育改革というものの旗はいつも立派だ。基本的には実行されればそれは良いものだと思う。だが、残念ながらその立派な旗を支えるポールが貧弱過ぎる。

自主性を育むアクティブラーニング

アクティブラーニングが目指すものは「自ら学び続ける能力を身につけ、自ら考える力をもった人間を育てる」こと。

勉強はというものは学生がするものではなく人間がするものだ。学問や知識は数年すれば古くなり社会は驚くようなスピードで変化していく。この世界の中で人は常に学び続ける必要がある。当然その学びを持って自主的に考える能力はなくてはならないものだ。もしこれが文面通りに実行されるなら従来の教育より良いものなのだろう。

従来通りの一方的な教育は先生が何かを教え生徒はそれをそのまま暗記していた。

アクティブラーニングでは生徒が主体的に参加して学んでいく。自分とは違う意見に触れたり、自らの意見を主張することも学びの一つにしていく。今までにない話し合いの中から得られるものは多い。現状のような個性を潰してしまう教育より可能性があるのかもしれない。参考:才能を潰してしまう学校教育と普通の子たち

もちろん懸念がないわけではない。先生が本当に生徒の意見を聴けるのか、話し合いの場を促進できるのかには不安が残る。人が自然に意見を言い合える場を作ることは口で言うほど容易ではない。相応の知識や技術が必要になる。それを今の多忙な教員が負担できるのかといえば、残念ながら難しいかもしれない。真にアクティブラーニングを実行するには、教員と生徒が同じ教育の場を作る存在として対等である必要があるし、それを受け入れることが出来る価値観も必要になる。

自主性を潰す社会

こんな言葉がある。

10で神童、15で才子、20過ぎればただの人

若い時に神童と呼ばれるほどの才能を持っていても大人になるとただの人になってしまうという古いことわざ。これは現代社会でも当てはまる。今の社会では大人になれば大体の人間が会社に属することになる。子供は天才でも、大人になるにつれその才能は陰りを見せてしまうことになる原因がその中にある。

どれだけ自分の考え方や高い能力を持っていたとしても、会社に入るとそれが損なわれてしまう。自分で考えろと言われながら、勝手にやると怒鳴られ、ホウレンソウをしないと嫌味を言われる。上司の機嫌を伺わせられ常に古いビジネスマナーの枠に収められる。仕事をしづらくなるからと飲み会に毎回参加してプライベートの時間を浪費する。

そんな教育という名の洗脳を受けていればどんな才能を持っていても、「その会社の人が考える普通」でいるしかなくなってしまう。

自主性を持っていたはずの才子がただの人になるのだ。自分で考えて行動するよりも指示を待って言うとおりにして、上司の意向に沿った仕事をした方がずっと都合がいい。そして本来の高い能力を投げ捨てて、あらかじめ用意された小さな枠に収まったことを、「成長した」なんて言ってしまう社会がある。

変わる教育と変われない社会

いくら学校で素晴らしい教育をしたところで、社会にはその受け皿がない。

法学の学校を増やして、そのその結果給料が減少した弁護士のように、学力を上げようと修士や博士を増やして、その受け皿がなく就職先がない高学歴の学生のように、同じような失敗をいつも繰り返す。そしていつも嘆いている情けない大人たち。最悪なのはその責任すら学生側に押し付けるところだ。

社会の側に用意がなければせっかくの教育を無駄にしてしまう。大量の時間を費やして成長したその可能性を潰してしまう。それどころか、自分で考えることのできる、自分の意思を持つ人間はこの社会での生きづらさに苦しむ可能性すらある。もしアクティブラーニングが実行された後、社会の価値観が変わらなければ。新しい学生たちは「最近の若者は言うとおりにせず我が強くて困る」とでも言われるのだろうか。学生が社会に適応できないのではない。社会の側が学問に追いつけていない。

いつまでも他人任せではいられないのだ。教育を担うのが教師の仕事だとしても、その教育を受けた学生を受け入れるのは普通の大人たちだ。普通の大人がその古い価値観で新しい教育を受けた学生をノーマライズしてしまうのであれば意味はない。それどころか若い人達に苦痛を強いることになる。新しい教育に期待するのは勝手だが、自分たちに変わる気がないのであれば意味をなさないことを覚えてほしい。

私は何よりも教育に投資するべきだと思うし、教育に対してあらゆる試みがなされるのであれば素晴らしいことだと思う。それでも、実行してそれを受け入れる土台がなければ、誰かが無理を押し付けられてしまうのもまた事実なのだ。

ゆとりを持った若者を受け入れられないように、自分の考えを持った若者を煙たがるのは目に見えている。この歴史から学ぶべきだ。同じ失敗を繰り返す必要はない。失敗したのは変化を受け容れられない大人であり、変化を受け容れられない古い価値観だ。

それならばこの教育改革と共に変わるべきは誰か?今こそ立ち止まって考えるべきだろう。

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